2019/06/29

【日中クロスオーバー】「東京から地方へ」日本の情報を発信し20年、中国人編集者が見たインバウンド市場の変化

早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社記者として地域・経済分野を中心に取材。2010年から中国・大連の東北財経大学に博士留学した後、少数民族向けの大連民族大学で日本語教員となる。2016年に帰国し、中国経済のニュースを中心に執筆、翻訳。法政大学イノベーションマネジメント研究科兼任講師も務める。

「旅日」編集長 姚遠(よう・えん)さん

日本旅行をテーマにした中国語フリーペーパー「旅日」の編集長、姚遠(よう・えん)さん(54)は、インバウンド市場が立ち上がるはるか前の2000年にメルマガ「東京流行通訊」の配信を始め、以降約20年にわたって日本の魅力を中国語圏に発信してきた。姚さんのこれまでのキャリアには、日中の経済や両国関係の変化が凝縮されている。

日本との出合いは「オフコース」

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6月に発行された旅日の初夏号には、瀬戸内芸術祭が数多くの写真とともに紹介されている。

「この数年で瀬戸内芸術祭の関係者もインバウンドに関心を持つようになり、今年は中国での情報発信に非常に力を入れました。努力が奏功して、中国人旅行者の来場者は過去最高でした」

日本の芸術や伝統文化にも詳しい姚さんのもとには、インバウンド消費を呼び込みたい日本の自治体や企業から相談が相次ぐ。けれど、来日したときには、日本のことをほとんど何も知らなかった。

姚さんは1988年、語学留学生として日本にやってきた。

「翌年に天安門事件が起きて、中国政府が海外留学を規制したため、以降しばらくは留学しにくくなりました。自分は滑り込みセーフです。とは言え、特に日本に行きたいわけではありませんでした」

西安で生まれ育った姚さんは、16歳になる年に、両親の転職に伴い福建省の泉州に移り住んだ。その後、厦門(アモイ)大学に進学し中国文学を専攻。当時は大学卒業後の進路を国や学校が決めており、学内文芸誌の編集長をしていた姚さんは、福州市の雑誌社に就職することになった。

「中国の中でも沿岸部は改革開放の恩恵を受け、ファッションや音楽などの外国文化がいち早く入ってきました」

1986年ごろには、たまたま耳にした日本のバンド「オフコース」のメロディーに感動し、日本語のわかる友人に頼んで歌詞を中国語に翻訳し、担当雑誌に掲載した。だが、その頃はまだ、日本への特別な気持ちはなかったという。

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学生時代は厦門大学の伝統ある文芸誌「鼓浪」(写真・上)の編集長を務めた。写真・下の中央が当時の姚さん

「若気の至り」で母国を離れ日本へ

勤め先の雑誌社は国有企業で、福利厚生として「2LDK温泉付き」の部屋が支給されるなど、待遇も良かった。それを捨て去り母国を離れたことを、姚さんは「彼女と別れたこともきっかけの一つだったし、用意されたレールの上を走り続ける人生に疑問も感じました。要するに若気の至りです」と笑って振り返った。

当時、日本はバブル経済の始まりだった。国際社会の一員という意識も高まり、「留学生受け入れ10万人計画」を政策として掲げ、積極的に留学生を受け入れていた。

「中国人にとって、その頃の留学の選択肢はアメリカか日本でした。そして日本の方が行ける可能性が高くて近い」

奨学金や留学の審査をパスした姚さんは1988年9月、日本語学校への留学生として、東京に渡った。

カメラマンの夢かなわず企業に就職

2年間の日本語学校留学を終え、姚さんは写真の専門学校に進んだ。中国での雑誌社勤務時代に旧ソ連から輸入したカメラに触れ、元々興味はあった。さらに、日本のギャラリーで催される写真展を訪れ、自分もこんな写真を撮りたいと思うようになったという。

「中国では、共産党の宣伝写真ばかり見てきたので、ギャラリーで風景写真を見て、まった全く違う写真の世界があることに衝撃を受けました」

森山大道氏など一線の写真家の指導を受けて感性や技術を磨き、卒業式では優秀学生として表彰された。

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来日まもない頃(写真・左)。新聞配達をしながら専門学校に通った(写真・右)
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原宿の路上で写真展を開催(写真・上)。卒業時には優秀学生として表彰された(写真・下)

だが、写真スタジオから内定を得ていたにもかかわらず、姚さんのカメラマンとしてのキャリアは、ある問題によって土壇場で白紙になった。

「就労ビザが取れなかったんです」

今でこそ、人手不足の解決策として、日本政府は外国人労働者の積極活用に動いているが、日本は「日本人にできる仕事は外国人にはさせない」という方針を長く貫いてきた。大卒人材が企業に就職しようと思えば、語学力など外国人としての専門性を生かした業務でないと、就労ビザは認められにくい。

中国に戻ってカメラマンを目指すか、日本で自分の専門と関係のない仕事をするか。二択を迫られた姚さんは結局、タオルの輸出入を手がける日本の貿易会社に就職した。

メルマガ「東京流行通訊」に5か月で1万人登録

日本で働き始めて数年経った1990年代の終わり、台湾で日本が大好きな若者を意味する「哈日(ハーリー)族」がブームになった。時を同じくしてインターネットが普及し、日本ファンの台湾人や香港人が、ネット上で日本の文化や旅行スポットの情報を共有するようになった。

姚さんはそれを見て、「間違っていたり、一面的な情報が多い」とフラストレーションを感じた。

より正しい情報を伝えるために、自分ができることは……。そうして2000年の自分の誕生日に始めたのが、自身が撮影した日本の風景写真に文章をつけて紹介するメルマガ「東京流行通訊」だった。

東京流行通訊は、開始から5か月でメルマガ登録者が1万人を超えた。インターネット人口の拡大にコンテンツが追いつかない時代でもあり、姚さんのもとには、大手企業からのコンテンツの提携話も舞い込むようになった。

「それで、すっかり気分が大きくなってしまった」姚さんは、メルマガの事業化を目指して2002年に勤め先を退職。しかし、ビジネスのノウハウもない中での起業は思うようには行かず、あっという間に生活が行き詰まってしまった。

夜はマクドナルドでアルバイト、昼はハローワークで仕事探し。2004年にハローワークで翻訳会社の求人を見て、面接に行った。

翻訳会社の社長は、姚さんの語学力だけでなく、これまでの経歴にも興味を示し、「会社の新規事業として、東京流行通訊を運営する」ことを提案してきた。

安定した生活の中で、自分がやりたいことに集中できるその提案は、姚さんにとっても渡りに船だった。

景気と日中関係に翻弄され

姚さんは同年11月に入社後、東京流行通訊のウェブサイトを立ち上げた。「ファッション」「家電」「自動車」などカテゴリーを分けてコンテンツを充実させていった。

日本と中国をつなぐ事業は、時代に翻弄され続けた。2008年のリーマンショック後はサイトへの広告出稿が激減し、存続の危機に見舞われた。尖閣諸島問題で日中関係が悪化したときも同様の逆風に直面した。

それでも、中国市場を目指す企業が増える中で、日中の大規模なファッションイベントとコラボするなど、東京流行通訊は両国の接点の役割を持ち続けた。

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2010年、NHKの情報番組「東京カワイイ★TV」で東京流行通訊が紹介される
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2013年からはフリーペーパーも発行

2012年、リーマンショック後の経営悪化を受け、東京流行通訊は翻訳会社から越境ECを手がける貿易会社に譲渡される。中国人の爆買いなどの追い風を受け、メディアの運営はその後も順調に成長したが、運営会社が別の事業の失敗で経営に行き詰まり、姚さんは2016年、同社を去らざるを得なくなった。

目先のブームに惑わされず関係を構築

とは言え、中国人旅行者による「爆買い」や東京オリンピックの開催決定を追い風に、インバウンド市場は急拡大しており、その分野の草分けである姚さんの再就職は難しくなかった。日本旅行の中国語フリーペーパーの定期刊行を計画していた企業に請われ、2017年から「旅日」の編集長として再スタートを切った。

紙媒体だけでなく、微博(ウェイボ)や微信(WeChat)など中国SNSでも情報を発信する。

旅日に移り、姚さんの取材先は、「東京」から「地方」に変わった。それは、日本、中国両方の需要の変化を反映している。

「中国人の間で、自然や文化など体験型消費への関心が高まっています。同時に、地方でもインバウンド消費を取り込みたいというニーズが顕在化しています」

一方で、インバウンド系メディアとしてのビジネス環境は、厳しくなる一方だという。東京流行通訊を始めてから10年ほどはほぼ独り勝ちだったが、最近は日本企業、中国企業、そして政府機関までが中国人向けの日本旅行メディアを立ち上げ、読者や広告を奪い合っている。

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京都や奈良で取材する姚さん

姚さんは2018年末、独立してフリーランスになった。旅日の編集長を業務委託で続けながら、今後は両国のクリエイターや職人の交流、ビジネスを橋渡しする役割にシフトしていきたいという。

来日30年で日本のバブルやその崩壊、そして中国の急成長、両国関係の悪化や改善を経験してきた姚さんは、目先のブームに惑わされず草の根で関係を構築する重要性を強調する。瀬戸内芸術祭では、アート好きな中国人の子どもたちの“遊学”を企画・実現した。

「私自身、何度もピンチがありましたが、人とのつながりで次の機会を得られました。そのつながりを、国を超えてつくっていきたいです」

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