2019/04/10

【知られざる中国の名経営者たち】
恐れを知らぬチャレンジ精神、種売りから改革開放を象徴する資本家に――傻子瓜子 年広九

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ジャーナリスト、翻訳家。中国経済・企業、中国企業の日本進出と在日中国人社会をテーマに取材を続けている。現地取材を徹底し、中国国内の文脈を日本に伝えることに定評がある。著書に『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』(祥伝社)、『現代中国経営者列伝』(星海社新書)。ニュースサイト「KINBRICKS NOW」、個人ブログ「高口康太のチャイナ・ウォッチング」を運営。

傻子瓜子のウェブサイト

「仕事を大事に」
父の教えを守り愚直に商売

中国の商いを救った男がいる。まだ市場経済が導入されていなかった中国で果敢に商売に挑み、3度の投獄を経てもあきらめなかった。文化大革命の余韻が残る1980年代初頭には「資本家による搾取だ」と世間から袋だたきにあうが、鄧小平の助けで難を逃れ、仕事を続けた。不屈の商売人、それが食品メーカー「傻子瓜子(シャーズグァズ)」の創業者、年広九(ニェン・グァンジゥ)だ。

年は1937年生まれ、安徽(あんき)省蚌埠(ほうふ)市懐遠(かいえん)県の農村出身だ。幼少の頃、水害で農業を続けられなくなったため、一家は安徽省蕪湖(ぶこ)市に引っ越し、道端で果物を売る露天商として糊口をしのいだ。そんな境遇だけに学校に行く余裕などなかった年は、7歳でシケモクを拾う仕事を始め、9歳からは天秤棒を担いで果物の行商を始めた。さらに不幸なことに父が急逝し、まだ10代の年が父の代わりに、露店を経営して一家を養うこととなった。

だが、年には商いの才があった。果物を売る時、まずはお客に満足いくまで味見をさせてやる。「値段をごまかしただろう」と難癖をつけてくる客にも反論せず、向こうの言うとおりに金を返してやる。仲間の商売人たちは「バカだ」とあきれかえっていたが、年は取り合うこともなく「バカ」な顧客サービスを続けた。それは父の教えがあったからだという。「利益よりも仕事そのものを大事にしなさい。そして仕事の成否は人との和にかかっている」 その言葉通りの姿勢で仕事に励んだ。商売は順調だったが、代わりに行く手を阻んだのは時代の暗雲だった。

文化大革命の最中に
こっそり瓜子(種)を売る

果物売りから魚売りに仕事を変えていた年だったが、1963年に逮捕された。罪状は「投機倒把罪」。転売や買い占めによって利益をあげることが罪とされていたのだ。1949年の中華人民共和国成立以来、中国ではさまざまな政治運動が展開され、そのたびに地主や資本家などが吊し上げられた。投機倒把罪もその口実の一つとなっていた。

1年間の牢屋暮らしとなったが、こんなことでへこたれるような年ではない。出所すると、今度は甘栗売りの仕事を始め、持ち前の商才で甘栗売りでも成功する。ところが、1966年には「牛鬼蛇神」の罪で再び逮捕。牛鬼蛇神とは毛沢東の言葉で、地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派の総称である黒五類を言い換えたものだ。1966年は文化大革命が始まった年であり、中国全土で「牛鬼蛇神」を締め上げようとする動きが広がった。甘栗売りですらも、見逃してもらえなかったわけだ。

20日あまりで釈放された年は、またも臆することなく商売を始める。今度は映画館の入口で果物売りという仕事だ。元の職に戻ったというわけだ。そこで瓜子売りの老人と出会った。瓜子とは種のこと。中国ではスイカやカボチャなどの種を煎ったものがおやつとして好まれていた。老人から瓜子の煎り方を教わった年は瓜子売りの商売を始める。もっとも文化大革命の最中で大々的に商売をすれば、また捕まるのは必至だ。人目につかない真夜中に種を煎る。夜になって帰宅途中の人に街角でこっそり瓜子を売る。まるで麻薬でも扱っているかのようなやり方で、商売を続けた。

「資本家」の誕生

そして、転機が訪れる。1978年、改革開放政策が始まった。市場経済を導入し、中国経済を立て直そうとする大改革だ。これをチャンスと見た年は個人事業者から企業への転身を決意する。人を雇い、事業を拡大しようと決めたのだ。もっともこれは危険な賭けだった。当時の中国では従業員7人までは「小工房」として許されたが、8人を超えると「資本家」と見なされてしまう。1980年には年の従業員は110人を超えていた。

「安徽省に資本家が誕生してしまった」

年の瓜子製造企業の話は中国全土を揺るがす大ニュースとなった。中国政府は彼に関するレポートを制作し、時の最高権力者である鄧小平にまで届けられた。この時の鄧の言葉が年の、そして全中国の商人の運命を変えた。

「こうした問題はまだ始まったばかりである。我々は慌てて結論を下してはならない。まあ、見てみようではないか」

今から振り返ると、改革開放後の中国は市場経済路線に邁進したかように見えるが、当時は誰もがおっかなびっくりで、手探りだった。今まで禁止されていた商売がどこまで解禁されるのか、また元の路線に戻るのではないかと市民は疑心暗鬼に襲われていた。いや、一般市民どころか、中国共産党の幹部、そして鄧小平ですら改革開放がどのように進んでいくか、具体的なルートはわかっていなかった。

手探りの改革開放
民間企業を国が追認

中国の内閣にあたる国務院は、1981年10月に「工業生産経済責任制における若干の問題に関する意見」を交付した。改革開放のキモにあたる経済責任制(企業は事業によって得た利益のうち、一定額を国家に上納すれば残る利益を自由に活用することが許された。すべての生産計画を国が定め、利益はすべて国家が受け取る社会主義制度からの転換を意味する)の実施に関する政策だが、次の一節がある。

「経済責任制の実行については、いまだに探索段階にある。各地域、各部局の幹部は領導を強化し、石をつかみながら川を渡らなければならない。水の深さはまだはっきりしない。一歩ずつ確かめ、バランスを取って進まなければならない。間違えれば戻ってまた歩き直そう。川で転倒してはならない」

何を行うべきか、何を行ってはならないのかの線引きがまだはっきりしていないと素直に吐露している。だからこそ年のチャレンジは中国じゅうの注目を集めた。大量に人を雇い事業を拡大することは、中国において許されることなのか。人々が戸惑うなか、年は迷うことなく突撃し、鄧小平はそのチャレンジを黙認するべきだと説いた。年が見逃されたことで、中国全土の商人たちは「商売は国に背くことではないのだ」と強く励まされたのだった。

このエピソードは今の中国経済を知る上でもきわめて示唆的だ。私たちが中国について学ぶと、ある疑問が浮かんでくる。果たして中国は一党独裁の全体主義的国家なのか、それとも強烈な市場競争が展開される自由市場の国なのか。共産党が国を支配し国家主導の産業計画を強烈に推進していることが事実ならば、そうした計画の外側で草の根企業家たちが猛烈な成長を続け中国経済を成長させていることも事実だ。さて、どちらが本当なのかと戸惑ってしまう。

どちらも本当というのが正しい答えだろう。国家主導の経済と草の根主導の経済の間には、暗黙の連携プレーがあった。国の産業計画の外側で民間企業家がチャレンジし、そのメリットとデメリットを見極めて国が追認するという連携だ。年広九と鄧小平はその典型と言えるかもしれない。鄧小平は1984年にも「傻子瓜子の発展は社会主義を傷つけるものではない」と発言している。

暗黙の連携プレーによる社会実装(新たな技術や制度の社会での活用)は現在でも中国の十八番である。ライドシェアがその好例だろう。一般市民がマイカーを使ってタクシーのような輸送業務を行うシェアリングエコノミーの一形態は、法規制が厳しい日本では今も認可されていない。一方、日本同様に厳しい規制を持っていた中国は「まあ、見てみようではないか」の精神で黙認、一大産業に育て上げた。中国ライドシェア最大手の滴滴(ディーディー)は事業形態を変えて日本にも進出するなど、世界的企業に成長している。

三度目の逮捕後、鄧小平の講話で
再び改革開放の象徴に

最高指導者からのお言葉は最強の護身符だ。加えて、年は1984年に自らの企業に政府系企業の出資を受け入れ、傻子瓜子を政府系との合弁企業にすることで後ろ盾を得ていた。これならば誰からも批判されることはないはず。紆余曲折が続いた年の商人人生もこれでようやく安泰になった……かと思いきや、まだまだ浮き沈みがあるのだから面白い。

転機となったのは1989年、天安門事件だ。民主、言論の自由、法治などをスローガンとした学生運動に端を発し、人民解放軍による鎮圧という悲劇的結末を迎えたことはよく知られている。だが、事件の余波はそれにとどまらない。その後の中国では保守派が勢力を強め、改革派は劣勢に立たされた。そうしたなか、改革開放以前を彷彿とさせるような、資本家を敵視する風潮も生まれてきた。

ここでも槍玉に挙げられたのは年だった。当初は汚職、公金横領の罪が問われたが、証拠がなかったため有罪とできず、最終的に1991年に流氓(りゅうぼう)罪で懲役3年の判決が下された。流氓罪とは「集団でのケンカ、騒擾挑発、婦女の侮辱などその他のごろつき的行為」を処罰するもので、定義があいまいなために、特定の罪で起訴できない時に警察が使う伝家の宝刀だ。問題が多いため、1997年の刑法改正で取り消されている。なんとしてでも資本家の年に懲罰を、というわけだ。

この危機を救ったのも、鄧小平だった。長らく公の場に姿を見せなかった鄧だが、1992年初頭に湖北省武漢市、湖南省長沙市、広東省深圳市などで姿を現した。そして、保守派を痛烈に批判し、改革開放路線を堅持するよう呼びかけた。この鄧小平の一連の動きは「南巡講話」と呼ばれている。天安門事件後続いた保守派による揺り戻しをストップさせ、中国の市場経済路線を決定づけた転機となった。

この南巡講話において、鄧小平は傻子瓜子にまたも言及している。

「農村改革の初期、安徽省には傻子瓜子問題が起きた。当時、多くの人が快く思っていなかった。100万元も稼いでいるではないか、処罰せよというのだ。私はダメだと言った。もし処罰すれば、人々は政策が変わったと言いふらすだろう。そうなれば、失うものが大きい」

この言葉で年は救われた。判決は一転して無罪となった。出獄した年を現地政府高官らはうやうやしく出迎えたという。救われたのは年だけではない。戦々恐々としていた他の企業家たちも南巡講話によって救われた。年は再び中国改革開放の象徴的人物となった。

現在、傻子瓜子の知名度は決して高くない。新たな瓜子メーカーが次々と登場したこと、さらに長男と次男の跡目争いの影響もあって、かつての力は失われた。年は経営権をすべて息子に譲った身だが、80歳を越えた今も店頭に立って、瓜子を売っている。

傻子瓜子と年広九の名は中国の歴史に永遠に残るだろう。2018年、中華全国工商業聯合会が改革開放40周年を記念して「傑出民営企業家百選」を発表したが、アリババグループのジャック・マーやテンセントのポニー・マーらと並び、年も選出されている。恐れを知らぬチャレンジ精神で、全中国の商人たちを救った彼の業績は忘れられることはない。

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